学会報第39号

(2019年5月31日発行)

法哲学を外に向けて普及するために

日本法哲学会理事長 森村 進(一橋大学)

 法哲学の発展のためには法哲学の研究者間の交流と切磋琢磨が欠かせないということは言うまでもありませんが、外部へのアウトリーチもまた重要な要素です。法哲学に隣接する法学や哲学の諸分野の研究者、またそれ以外にも広く一般の人々にも、法哲学についていくらかでも関心を持ってもらうことがこの学問の裾野を広げ、多様な知見や問題関心を取り入れて、間接的には研究の水準を高めることにもつながるはずです。
 会員の中には、法哲学についてほとんど何も知らない人から「法哲学とは何か?」とか「この問題について法哲学的にはどう考えるか?」などと質問された経験のある人が多いことと思われます。そのような場合、質問者の動機が真正の知的関心であれ、隠微な揶揄であれ、単に会話の空白を埋めるためであれ、それに対する答え方によって、相手に法哲学への関心を持ってもらえるかどうかが大きく変わってきます。質問を受けた人が、たとえば「法哲学者の数だけ法哲学がある」とか「何をもって法哲学的な考え方と言うのか、それこそが問題だ」などと答えて済ましてしまったら、相手がそれ以上法哲学のことを知ろうとする確率は高くないでしょう。それよりも自分の法哲学観や見解を端的に述べて、それ以外にもさまざまの意見があるというふうに話を展開した方が法哲学への関心を持ってもらえそうです。
 またその逆に、特定の学問分野の専門家でもない人にいきなり研究の「最前線」を紹介したり、細かい概念の相違や用語法について説明したりしても、同じようにその分野への関心を失わせることになりかねません。
 私が以前エリック・ロメールの映画『春のソナタ』(1990年)を見たら、次のようなシーンがありました。登場人物たちが夕食をとっている時、主人公であるリセの哲学教師と哲学専攻の大学院生がカント哲学について話している最中にピアニスト志望の音楽学校学生(なおこの三人はすべて女性)が何か口をはさむと、大学院生は「それは『超越的』と『超越論的』との混同に基づくありふれた誤解ね」と言ってあっさり片づけてしまうのですが、これを見た私は「そうか、『超越的』と『超越論的』の区別はカント哲学を知らない人を馬鹿にするためにあるのか」という気づきを得ました。これと同じようなことは法哲学の分野でも考えられるでしょう。「法規範」と「法命題」がどう違うかとか、ロールズの「格差原理」を「マクシミン原理」と呼んでよいのかとか、「排除的実証主義」と「包含的実証主義」の対立といった問題は、専門家にとっては重要であっても、法哲学に接したばかりの人をディスカレッジするものでしかないかもしれません。
 法哲学に興味を持ってもらうためには、その人自身の関心に引きつけるのが一番でしょうが、各人の関心がどこにあるかはすぐにはわからないことが多いので、次善の策としては一般的な関心を集めそうなテーマや例に結びつけるのがよいかもしれません。ともかく私は法哲学会会員の中に、機会があれば法哲学の面白さと意義を語る伝道師的な役割を自覚的に果たしてくれる人が増えることを期待しています。