学会報第28号

(2013年9月20日発行)

地球の反対側で考えたこと

日本法哲学会理事長 井上達夫(東京大学)

日本の対蹠点

ブラジルに行ってきた。ベロ・ホリゾンチで開催された第26回IVR世界大会に参加するとともに、この機会を利用して、サンパウロで裁判所訪問等、現地視察・資料収集をし、ブラジルの法と社会について知見を得ることが目的であった。ブラジルは遠い。往路も復路も機中泊2泊。ヨーロッパや米国への出張の二倍の距離である。ブラジルは地球上の日本の対蹠点、まさに地球の反対側に位置する。時差は12時間、時計の針を動かす必要がない。午前と午後を逆にするだけでいい。昼夜が逆であるだけでない。南半球にあるため季節も逆。日本は夏だが彼の地は冬だった。もっとも、冬でもそれほど寒くはない。ベロ・ホリゾンチでは日中は摂氏30度くらいに達することもあり、サンパウロでは、肌寒さを感じることも若干はあったが、ほぼ東京の秋のような天候だった。
1979年に米国でスリーマイル島原発事故が発生した際、炉心溶解(メルトダウン)寸前まで行った危機を指して、「チャイナ・シンドローム」という言葉が使われた。炉心溶解すれば超高熱の放射性溶融物が米国の反対側の中国まで達するだろうという想像を表現した言葉だが、同じ北半球に位置する中国を地球の反対側とみなすのは、米国的世界像の歪みを反映しているのかもしれない。しかし、おぞましい仮想だが、2011年の福島原発事故の際、炉心融解の危機を表現するために、「ブラジル・シンドローム」という言葉が日本で使われていたとしたら、どうだろう。物理学的にはともかく、地理学的には決して奇異ではなかったろう。ブラジルにとっては不快な言葉だろうが、原発事故がもつ地球規模の破壊的影響力を人々に自覚させるには相応しい修辞と言えるかもしれない。長旅でブラジルに着いた後、そんなことをまず考えた。(この言葉の使用は仮想ではなく、実例が存在するかもしれないが、その場合は私の無知をご海容願いたい。)
ブラジルは地理的に日本と対蹠的であるだけでなく、法や社会状況に関しても日本とは大きな違いがあるようだ。もちろん、短期間の滞在で得た僅かな見聞に基づいて断定的なことを言うべきではない。あくまで印象主義的コメントであることをお断りした上で、私の僅かな見聞のうち法哲学的に興味深い含意をもつと思われる点を多少述べてみたい。これは、「法の過少」と「法の過剰」ともいうべき、一見矛盾した特質の共存に関わる。

法の過少

今回の渡伯にサンパウロ訪問を組み込むことができ、しかもそこできわめて有益な経験を得ることができたのは、日系ブラジル人として日伯交流に尽力されてきた二宮正人氏のお世話による。二宮氏はサンパウロ大学法学部教授として国際法・国際私法・労働法等の研究教育に従事されると同時に、弁護士としてサンパウロで法律事務所も経営し、学界・実務界双方で活躍されている。ブラジル日本移民資料センターの拡充整備と運営に多大の貢献をされ、1992年から現在まで国外就労者情報支援センター(CIATE)理事長も務め、日系ブラジル人や在日ブラジル人の労働問題・人権問題に関する支援活動に尽力されている。二宮氏が文部省国費留学生として東京大学法学部の博士課程に在籍しておられた頃、私も助手として同じ共同研究室で机を並べさせていただいたが、彼とはそれ以来の旧知の間柄である。今回の滞伯期間中、彼は明治大学での集中講義のため日本に滞在中で、すれ違いになったが、私の渡伯前にいろいろ情報提供していただき、サンパウロ大学やサンパウロ州裁判所等の訪問の手はずも整えてくださった。また、二宮氏の計らいにより、CIATE専務理事としてサンパウロに滞在しておられる日本の弁護士、大嶽達哉氏に現地で案内していただくことができた。大嶽氏にも大変お世話になった。
二宮氏と大嶽氏からブラジル社会の魅力を教えていただいたが、同時に用心を促されたのは治安の悪さである。中心市街でも夜は出歩かないようにと警告された。同様な警告は他の方からも受けた。サンパウロの滞在先ホテルで面談の機会を得たK氏は、1950年代に日本の大学を卒業後ブラジルの日系銀行に就職し、ブラジルに魅せられて移住、いまサンパウロで引退生活を送っておられる。彼は「ブラジルは温暖で食糧など必需品の物価も安く、暮らしやすい国です」と言われたが、その後で、「治安の悪さを除いては」という但し書きを付け加えられた。また、二宮氏ご贔屓のサンパウロの鮨屋「新寿し」を訪ねたとき、日本で10年修行してきたという若主人の握る鮨の旨さに感動したが、洗練された鮨屋であるにも拘わらず、うどんやラーメンまでメニューにあるのを訝しく思い、理由を尋ねると、彼は、「夜、別々の店を梯子して歩くのは危険なので、締めのラーメンまで、うちの店一つで済ませられることをお客が望んでいるんです」と答えた。
治安の悪さの背景には、ブラジル経済が急成長後、景気低迷しているという経済情勢の変動だけでなく、固定化した貧困と貧富格差という構造的要因も基底にあるようだ。これを可視的な形で象徴するのは、サンパウロやリオデジャネイロなど大都市周辺に存在する巨大なスラム街である。緩やかな丘陵地帯を色とりどりの家々が覆い尽くし、それが夕日に映えるさまは遠目に見ると美しい。しかし、よく見ると、家々はところどころ壁が崩れていたり、屋根が抜け落ちたりしており、廃屋かと思いきや、洗濯物が干されており、煙突からは煙も出ている。大嶽氏によると、これらの住居群は公有地等を不法占拠して建てられたもので、それにも拘わらずスラム街内部では勝手に土地家屋の「売買」などの取引がなされているそうだ。ここから市街地に「出勤」して犯罪で稼いで帰宅する者が大勢いる。また、麻薬組織の巣窟となっており、対抗組織間の抗争もよくある。私の乗っているタクシーが一度スラム街を通り抜けたことがあった。5、6人の警官が武器を構えて路地で何かを見張っているのが車窓から見えた。その武器は短銃ではなく、銃身のきわめて長いライフル銃のようなものだ。一瞬、恐怖感を覚えた。後でK氏から聞いたところでは、麻薬組織は資金力があるので警官以上の武装をしており、警察のヘリコプターが麻薬組織の対空ロケット砲で撃墜された事件すらあったという。スラム街では射程距離の長い強力な銃器を持たないと警官も身が危ないということだろう。
ブラジル社会における「無法性」ないし「法の過少性」の要素は、一般市民の行動にも一部見られる。日本でも報道されているように、ワールドカップやオリンピック開催のための公共事業投資よりも社会保障の充実を求めるデモが、ブラジル各地で起きている。これらのデモの中には暴動化したものもある。私がサンパウロに到着した7月25日、サンパウロ市街と空港を結ぶ幹線道路を走るバスをデモ隊が乗っ取り、バスを道路に横付けしてバリケードにし、サンパウロ史上最悪ともいわれる交通渋滞を引き起こした。幸い、私はデモ隊のバス乗っ取りが起こる前に市街地のホテルに到着していた。その後、市内のレストランで大嶽氏と会食してホテルにタクシーで帰る頃には、乗っ取られたバスのバリケードは撤去され交通は正常化されていたので、この事件があったのを知ったのは後日である。興味深いことに、新しいサッカー場建設に税金を使うのに反対する市民の多くもサッカーは大好きで、デモ隊の暴動と並行して、サッカーへの熱狂がアナキー的に表出されてもいる。サンパウロに到着した7月25日、昼過ぎまでは私はベロ・ホリゾンチにおり、そこで、その一例を目撃した。
その日の夜明け前から、ベロ・ホリゾンチ中心街にある私のホテルの周辺は異様な騒ぎに包まれていた。酔った群衆が車道を練り歩き、信号待ちの車の窓を叩いて何か叫び、走る車も祝砲的なリズムで警笛を鳴らし続け、花火や爆竹のけたたましい音が何度もした。サッカーの全南米クラブ・チーム大会で、ベロ・ホリゾンチの地元チームが初めて優勝したのを祝っての騒動である。南米ではサッカーの試合は夜に開始されるため、勝敗が決したのが午前1時ころだったらしい。ホームでの試合だったので、サッカー場にいた大勢のサポーターたちが街路に繰り出したようだ。テレビで観戦して合流した人々もいただろう。交通妨害も安眠妨害もなんのその、この路上狂宴を朝陽が高く上った後も繰り広げていた。市当局も規制せず放置していた。この日の職場は欠勤者や遅刻者が大勢いたことだろう。大嶽氏によると、昨年の同じ大会ではサンパウロの地元チームが優勝し、同じ狂宴がこのブラジル最大都市で、それに相応しい巨大な規模で繰り広げられた。「戦争でも起こったのかと驚く騒ぎだった」というのが大嶽氏の言である。

法の過剰

逆説的に聞こえるかもしれないが、このような「法の過少」とは対照的な「法の過剰」ないし「過剰法化」とも言える側面もブラジル社会にはある。これを強く感じたのは、サンパウロ州の第一審裁判所であるジョアン・メンデス裁判所の訪問においてである。大嶽氏に案内されて裁判所に入ると、まず目に付いたのが書類を手に持つ人々の長蛇の列である。訴状を提出しに来た者の列だという。そこを通り過ぎ、上の階に移動して、二宮氏の計らいでアポを入れていた民事訴訟担当の日系ブラジル人女性裁判官トニア・ユカ・コロクさんと面会した。トニアさん――彼女はファーストネームで自己紹介されたので、ここでもその名で呼びたい――とお会いした部屋は、カジュアルなオフィスにしか見えなかったのだが、実はそこが彼女の法廷(第13民事法廷)だった。裁判官たる彼女の机と直交するように長いテーブルが置かれており、その両側に対峙して原告と被告、双方の弁護士が座って弁論をするのだという。彼女の秘書かと思った数名の女性スタッフは書記官等の裁判補助員だった。我々もこの弁論用テーブルの両側に座って話をした。
トニアさんはイタリア人のような風貌で、言われなければ日系とは分からない感じだったが、日本語は堪能、機関銃のようにポンポンと言葉が飛び出す早口で、気取らず率直かつユーモアたっぷりに応接してくれた。痩身の小柄な美人だが大男も威服されそうな強靭さと迫力をもち、頭の回転の速い能吏でありながら人間的魅力も豊かな人という印象を受けた。訴状提出者の長い列に驚いたため、「ブラジルは米国のような訴訟社会ですか」という質問から切り出すと、トニアさんは決然と「米国以上ですよ!」と答えた。彼女一人で毎月250件も新事件を抱え、しかもその中には、こんなことで裁判所に来るなと言いたくなるような瑣末な紛争も少なからず含まれるという。例えば、料理中にちょっと台所を離れた隙に、隣人が料理を盗んだから弁償しろという損害賠償請求もあるとのこと。
「もっと立派な部屋があるから移りましょう」という彼女の指示に従って、場所を変えると、新たに二人の男性裁判官、リカルド・ペレイラ氏(第12家族相続法廷担当)とマルシオ・ラランジョ氏(第21民事法廷担当)が加わった。お二人は日系ではなかったので英語を交えて議論を続けた。頻繁な訴訟の原因が話題となったが、トニアさんによれば、手厚い法律扶助制度のおかげで経済的負担を負わずに誰でも訴訟を起こせるようになり、弁護士数の多さがそれに拍車をかけているという(日本では2012年3月時点で人口約1億2700万に対し弁護士は約3万2千人だが、ブラジルでは現在、人口約2億に対し弁護士は約65万人である)。ブラジルでは民事事件にも弁護士代理が強制されることも背景にある。私は、戦後日本で日本人の訴訟回避傾向の原因論が、権利意識後進性論から裁判制度欠陥論へ、さらに予見可能性論へと推移してきた経緯を説明し、司法アクセスの容易化が濫訴を招くと見るトニア説が日本の裁判制度欠陥論と表裏一体の関係にあることを指摘した。その上で、日本の予見可能性論と表裏一体の説明として、ブラジルの裁判制度の予見可能性の相対的な低さが、「裁判すればもっと取れるかもしれない」という期待を生み、訴訟インセンティヴを高めているとは言えないかと聞いてみた。トニアさんと他の裁判官もそのような説明が部分的には妥当する可能性を認めた。ただし、トニアさんによれば、裁判で勝っても、被告の無資力や悪徳弁護士の着服などで、実際には大して金を取れないことも少なくないらしい。なお、サンパウロ州調停所長を兼務するペレイラ氏によると、家事紛争の分野では、濫訴問題に対処するために調停制度の活用を図る動きが進んでおり、調停による紛争解決の成功率が最近は約80%にまで上昇したという。
法の過少と過剰との逆説的結合は、ブラジルだけの現象ではない。法が限界を内包すること、法は社会秩序の一部であって全部ではないことは、法について妥当する普遍的命題の一つである。法がその支配を拡大し強化しようとすれば、法外的な諸力が反動的・拮抗的に昂揚することは不思議ではないし、法外的諸力が封じ込められつつも「法の圏外」で事実上黙認される一方、「法の圏内」では法が強固に自己を貫徹しようとすることも不思議ではない。しかし、何が法の圏外に置かれ、何が法の圏内に置かれるかの線引きは、社会ごとに、また時代ごとに、異なるだろう。現代日本にも法の過少と過剰との結合はあるが、そのあり方はブラジルとは異なる。この相違を「文化の違い」によって説明することはできない。文化は説明項(explanans)ではなく被説明項(explanandum)だからである。この相違を理解し説明するには、それぞれの社会のそれぞれの時代のディレンマや問題状況を理解する必要がある。地球の反対側にあるブラジルに来て、この国についても、自国日本についても、その現実と歴史についてもっと深く理解する必要を痛感した。

「内向化する日本」を超えて

今回の旅では、ブラジル日本移民資料館の訪問や、日系ブラジル人の方々との接触を通じて、ブラジル日本移民社会の苦難の歴史と現在の発展についても学ばせていただいた。より正確には、学びの契機を得たというべきだろう。このことに立ち入る紙幅はもはやないが、一言だけ述べておきたい。日本人移民たちは、遠く海を越え、地球の反対側であるブラジルや他の中南米諸国、さらには米国等に渡って、かかる異郷の地で、農奴的搾取や苛酷な開墾労働、社会的差別と戦時の迫害等の苦難と闘いながら、勤勉・忍耐・創意工夫の精神により、現在の確乎たる地位を築いた。現代日本社会に住む我々は、「課題先進国」といわれるほど多くの難題を抱えたまま低迷し続け、半ば自信喪失し、いまその難題に立ち向かおうともがいているが、一世紀以上に亘る移民史において日本人移民たちが示した不屈の精神から、我々は多くのことを学べると思う。特に、日本人移民集団内部に自閉する者の多かった初期移民の限界――日本敗戦の事実をめぐる「勝ち組」と「負け組み」の対立など、痛ましい内部抗争の悲劇も伴った限界――を超えて、自己の美質を生かしながら異郷社会に参入し、主流派集団と協調しつつ競争する努力を続けた日本移民の歴史は、「内向化」や「ガラパゴス化」として語られるような現代日本の陥穽からの脱却を我々が図る上で、重要な教訓を与えてくれるだろう。
「内向化」の克服は日本法哲学会にとっても重要な課題である。4年前理事長に就任したときの挨拶文やその後の学会報巻頭言で、グローバルな知的パラダイム開発競争に日本の研究者が参加する必要性を強調した。今回のベロ・ホリゾンチ大会もそうだが、IVR世界大会で日本の法哲学会員の参加者、特に若い世代の参加者が増えてきているのは頼もしい傾向である。しかし、グローバルな知的競争において日本のプレゼンスを示すには、国際雑誌投稿数の増加など、なお一層の努力が必要である。今秋、任期二期の慣例に従い理事長を辞するので、私の学会報巻頭言執筆もこれが最後になる。そこで、一つ「遺言」を残したい。日本人移民のガッツに学ぼう!