学会報第23号

(2011年5月15日発行)

大震災が私たちに問うもの―日本の社会と知の再建に向けて

日本法哲学会理事長 井上達夫(東京大学)

被災者のみなさまに

 3月11日、私は自宅にいました。午前中、近所の知り合いの鉄工所の人に、雨水を雨どいから引き込んで貯めておくタンクを自宅裏に設置してもらっていました。「地震で水道が止まったときのために、これがあるといいよ」という彼の勧めに従ったのです。奇しくも、まさにその日の午後2時45分ころ、地震がありました。普段、多少の地震の揺れには平気な私ですが、いつになく大きな揺れが執拗に続いたため、このときばかりは、「いよいよ、来るべきものが来たか」と感じ、そのとき私とともに在宅していた次男に、「風呂場に逃げろ!」と叫びました。10年以上前に自宅を改築したとき、大工の棟梁から、この家で大地震のとき一番安全なのは風呂場だと聞かされていたからです。幸い、風呂場に逃げ込む前に揺れは収まりましたが、テレビをつけて地震速報を見ると、津波警報が出ていました。以後放映され続けた津波の映像を見て、その悪魔的な破壊力に、私は言葉を失いました。
 「東日本大震災」と命名されるに至ったこの地震と随伴した大津波が東北・関東にもたらした巨大な惨禍は、みなさまご存知の通りです。会員の中で、ご自身やご親族が被災された方々には、その辛苦の痛みを分かち合わせていただくとともに、一時も早い生活の再建を祈念いたします。苦難をお慰めする思いと復興への祈りは、すべての被災者に捧げさせていただきます。特に、被災で生命を奪われた三万人を恐らく超える犠牲者と、そのご家族の方々のご無念に思いを致し、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

失敗の本質

 今回の地震と津波は天災ですが、その被害をここまで大きくしたのは、いま随所で露呈している日本の官民の危機管理能力の貧困や危機管理体制の脆弱性であり、その意味でこの大震災は人災でもあります。震災発生の数日後、大学のある公務の関係で、地震学を専攻する東京大学教授ロバート・ゲラー氏と居合わせ、休憩中に話を聞く機会がありました。彼は若くして東大に教員として招かれ、阪神大震災のときから、日本の地震研究が地震予知システムの開発に集中し、大規模地震が起きた後の危機管理システムの研究開発を疎かにしていることを批判してきましたが、日本の学界・行政からはずっと無視ないし「厄介者扱い」されていました。地震の正確な予知が可能であるという前提は間違いで、予知システム開発に使われている多大な研究資源は地震発生後の危機管理システム構築に向けられる方が被害を抑止・軽減する上で効果的だというのが彼の見解です。「いつ、どこで起こるか」の予知に向けられた研究体制だと、危険度が高いと推定される地域に関心が集中してしまうが、これまで、日本の多くの大規模地震は危険度が低いとされてきた地域で起こっており、「いつでも、どこでも起こりうる」ことを前提に、発生後の危機管理体制を整備しておくべきだというのです。今回のマグニチュード9レベルの地震を「想定外」とする政府・学界主流派の主張はまさに予知中心主義の誤謬で、このレベルの地震は記録されている限りで、すでに過去に4回あり、直近のスマトラ沖地震は2004年に起きており、このような大地震とそれによる大津波は日本のどの地域でも起こりうることを当然「想定内」に含めて危機管理体制を構築すべきであったと、彼は私に熱く語っていました。
 地震予知が可能か否かをめぐっては専門家の間で議論があり、私が判断できる問題ではありませんが、少なくとも、大規模地震発生後の危機管理システムの研究開発が疎かにされてきたというゲラー教授の指摘は当たっていると思います。仮に予知が可能だとしても、その可能性を実現するために膨大な研究資源と時間の投入が必要で、予知できたところで地震の発生を回避することはできないとしたら、発生後の危機管理システムの研究開発に資源をむしろ重点配分すべきではないかということは、問われて然るべきでしょう。危機管理システム構築が疎かにされてきたのは、政府の責任であるだけでなく、研究資源配分における既得権を固守して政府と癒着してきた研究者たちの責任でもあります。
 同じ問題が、今般の津波による福島原発事故で露見した東京電力・監督政府機関の危機管理の杜撰さや、「想定外」という口実を連発する原発関係研究者たちの狼狽ぶりにも現れています。いまから30年ほど前、スリーマイル島原発事故の翌年でしたが、我が恩師、碧海純一教授が主宰した「科学と社会」という共同研究プロジェクトに参加した関係で、当時の名古屋大学プラズマ研究所(現在は核融合科学研究所に統合)の所長で国際原子力機関次長も務められた垣花秀武氏に恩師とともにインタビューする機会がありました。そのとき、垣花氏は、運転員の作業ミスが事故を拡大させたスリーマイル島のようなケースは、日本では現場がしっかりしているから考えられないが、事故後の米国のトップの危機管理は素晴らしかった、日本で万一この種の事故が起こったら、日本のトップが同様な危機管理能力を発揮できるか疑問だと言われました。私はいま、この垣花氏の言葉を、背筋の寒くなるようなリアリティをもった預言として思い出しています。
 日本はいま、福島原発事故や長引く余震など目前の危機に加え、今後の復興努力の前に立ちはだかる中長期的な社会経済的危機への対処という困難な課題を背負っています。しかし、今般の大震災で、上述のように、政府・民間の危機管理システムの貧困が明らかになりました。その背景には、情報伝達と意思決定システムの欠陥、さらには統治システムの欠陥があります。原発のリスクを地方の過疎地に転化して、エネルギー多消費型のライフスタイルの便益だけを享受する大都市圏の国民マジョリティのエゴに政治がおもねってきたという、民主主義の歪みの問題もあります。今後日本を単に復興させるだけでなく、同じ過誤を繰り返さない社会として再建するためには、日本の政治・経済・社会の在り方全体が根本的に反省されなくてはなりません。まさにそれゆえに、地震学・原子力工学・エネルギー関連諸学など自然科学諸分野だけでなく、政治・経済・社会を研究対象とする人文社会科学の在り方も反省を迫られています。

法哲学の課題

 法哲学も人文社会科学の一翼をなし、しかも統治の原理たる法と正義の考察を任務とする以上、自己反省・自己変革の要請を突きつけられています。日本法哲学会は2009年度学術大会で、「リスク社会と法」を統一テーマにしました。原発問題にも関わるこのテーマを取り上げたのは「先見の明」ありと言えるかもしれません。しかし、リスク社会論においては、計算不能・予測不能なリスク――「リスク」というより「不確実性」と言うべきですが――をいかに回避するかが重視され、企画責任者である中山竜一大会委員長が、「予測不能なリスクに対する人々の『恐怖』を解消するという名目で、過剰な予防的介入が正当化されるという危険」(2009年度法哲学年報9頁)を指摘したことからも示されるように、予防的関心が支配的だったと言えます。これは、過剰な予防的介入による市民的自由や諸々の人権の侵害という中山委員長が危惧された問題だけでなく、「事後的」な危機管理への関心の欠落・希薄化という問題も孕みます。
 「大規模事故を事前に回避すること」を絶対的要請にするなら、「大規模事故が起きてしまった後で、その危機にいかに対処するか」という問題を直視することは、「絶対あってはならないこと」を「十分ありうること」、さらには「いつか、どこかで、必ずあること」と想定して対策を考えることであるがゆえに、考えたくない、あるいは考えること自体が許し難いという態度を醸成します。原発の予測不能なリスクへの人々の「恐怖」が、政府や原発関係の企業・研究者をして「原発は絶対安全です」という神話の普及強化に向かわせ、大規模原発事故のリスクを直視して事故後の危機管理システムの構築を公共的討議のアジェンダに載せることを回避させたという点に注目するなら、リスク忌避と危機管理に対する思考停止との間の心理的共犯関係も指摘できるかもしれません。
 福島原発事故後、世界中で反原発運動が再燃していますが、原発をなくせば問題が解消するわけではありません。原発を廃止したところで、風力・太陽光などによる代替発電だけでは十分な電力を安定供給できない以上、火力発電・水力発電に頼らざるを得ず、前者には温暖化リスク、後者には山林河川海浜の自然破壊リスクがあります。さらに、原発がなくても、今回の大震災のような巨大な惨禍は、またいつか、どこかで起こるでしょう。私たちは、予測不能なリスクへの「恐怖」から、その回避にのみ専心するのではなく、むしろ、〈予測不能なリスクの回避不能性〉を直視して、それが現実化したときの危機管理システムの構築を喫緊の社会的課題として引き受け、さらに、その遂行を行政や専門家に任せて済ませるのではなく、彼らも陥る願望思考や惰性的怠慢をチェックし、彼らに必要な仕事をしっかりやらせ、その専門的知見を生かして、ポピュリスト的ヒステリーをも自制して問題を冷静に検討しうるような、成熟した公共的討議を遂行する社会を築いていかなければなりません。
 日本法哲学会も、このような公共的討議の発展に貢献するために、リスク社会論の問題提起を受け止めつつも、それを超えて、〈危機管理の法哲学〉を今後構築していく必要があると思います。危機管理の法哲学の課題は種々あります。例えば、戦後民主主義の下で、戦前・戦中の軍国主義体制への反省も一因となって、「非常事態の法理」の研究は十分なされてはきませんでした。非常事態への迅速かつ実効的な対処と人権保障・民主的答責性保障とをいかにして両立させうるかは、立憲民主主義の法哲学的基礎にも関わる根本的かつ現実的に重要な課題です。また、今回の大震災は、被災した自己のコミュニティから離れたがらない人々を、被災地では困難な支援の実効化や、衛生劣化による汎流行疫病発生等の二次被害抑止等のために、安全な地域に強制的に集団移住させることが正当かとか、原発事故修復のために、きわめて危険な作業を誰かがやらなければ、被害がさらに巨大化・長期化する虞があるとき、その危険負担を公正に割り当てるにはどうすればよいかなど、功利主義・リバタリアニズム・平等基底的人権論・共同体論など、現代正義論において対立競合する様々な諸理論が応用されテストされうる現実的諸問題を提起しています。
 理事長就任挨拶や以前の学会報巻頭言で、私は、日本の法哲学が海外理論の輸入紹介を超えて、日本と世界が直面している現実的諸問題に対処しうる独創的な新しい知的パラダイム開発競争に参加する必要を訴えました。危機管理の法哲学の展開は、この課題を遂行するための一つの重要な機会を提供しており、今後すぐれた研究成果が会員から発信されることを期待いたします。世界中の人々が、彼らにとっても他人事ではないこの危機に、日本政府がどう対処できるかだけでなく、日本の社会全体が、そして日本の知的世界が、どう対処できるかにも注目しているのです。