学会報第25号

(2012年6月15日発行)

いま、日本の何が劣化しているのか
―制度改革における政治的知性の貧困

日本法哲学会理事長 井上達夫(東京大学)

「日本人の劣化」論再考

 「日本人の劣化」という言葉が流通して久しい。日本型システムの破綻を一向に克服できない日本の改革能力の貧困を揶揄する「失われた20年」という言葉と同様、これは、日本人の自信喪失だけでなく、海外の日本評価の低落傾向とも結合している。たしかに、津波被害・原発過酷事故をも伴った東日本大震災は、破局的被害に対して日本の人々が示した忍耐心や「秩序正しさ」への敬意を一時世界の人々の間に広めた。しかし、最近ではまた、日本の政府・企業の無責任性や危機管理能力の欠如に対して、また、それに愚痴をこぼすだけで、体制に対する厳しい責任追及と断固たる改革要求をつきつける運動を大規模に推進できない「おとなしく優しい日本人たち」に対して、苛立ちの色や、失望の色も海外の論調の中に見えてきている。
 日本は「ダメな社会」に、日本人は「ダメな人たち」になってしまったのだろうか。私はそうは思わない。なでしこジャパンが女子サッカーで世界一になったとか、続発する地震にも平然として世界一の高さで聳え立つスカイツリーの技術力だとか、トヨタの復活だとか、そんなことが言いたいのではない。欧米諸国に対する後発優位の利点をたっぷり享受して「奇跡的経済発展」を遂げ、そのピークを過ぎてバブル崩壊へと至った後、私たちは普通の国の普通の人たちになっただけなのだ。Japan as Number Oneなどとおだてられて、いい気になっていたのがおかしい。過度の自惚れは過度の自己卑下に簡単に反転する。どちらも自己の実像を直視しない点で同じメダルの両面である。日本が種々の困難をなかなか克服できないでいるのと同様、欧米諸国もまた、リーマン・ショック以降の米国の経済的もたつきと政治的混乱や、EU加盟諸国の経済危機と実効的危機管理を阻む内部対立などが示すように、深刻な病理と自己回復力の欠損を示している。いま、かつての日本以上に後発優位の利点を貪って荒々しいほどの経済的発展活力を示す中国も、やがてバブル崩壊の日を迎えるだろう――既に不動産バブルの崩壊は始まっている――し、この国が、二代に亘る一人っ子政策による「大人6対子1」という世代間人口構成不均衡の時限爆弾が破裂したときに直面するだろう問題の深刻さは、日本の少子高齢化問題の比ではない。日本はいわば、執拗な持病や生活習慣病を抱えて、やれやれといいながら生きている「普通の中高年」である。さらに言えば、グローバル化の進行の帰結として、一国の社会経済危機が一国だけでは解決できなくなっているという構造的要因もある。
 以上、日本列島に住む私たちは特段に自己卑下する必要はないことを強調した。しかし、これは、いまの日本の実像が孕む欠陥を客観的に直視する必要を否定するものでは毛頭ない。日本人が特段に劣化したわけではないとしても、日本という社会がいま劣化した部分をあちこちに抱えていることはたしかである。皮肉なことに、「日本人の劣化」を克服すると称する改革の実践や試みに、「劣化」の傾向が顕著である。日本法哲学会会員にとっても他人事と座視できない二つの問題に少し触れておこう。いずれも、会員の多くが生きるアカデミズムの世界に関わる制度改革の問題である。

法曹養成制度改革の劣化

 明治学院大学が法科大学院の学生募集廃止を決定した。姫路獨協大学、大宮法科大学院大学に続き、これで3件目である。法科大学院統廃合はまだ続くかもしれない。しかし、問題はそれだけではない。「安泰」とされる「大手」でも、法科大学院は設立時の高邁な理念とは裏腹な実態を呈している。多様なバックグラウンドをもった学生を集めるといいながら、社会人の志願者は激減し、「隠れ未修」はむしろ「公然たる原則」と化している。受験勉強を超えた幅広く深い知識と問題解決能力を学生に習得させるといいながら、約十年前に司法制度改革審議会最終意見書への批判的応答として刊行された書物(井上達夫・河合幹雄編『体制改革としての司法改革』信山社、2001年)で私が予言していたとおり、法科大学院生が司法試験予備校に通うダブルスクール化の現実が跋扈している。教員団の一隅に私もいる東京大学法科大学院でも、自習室の机に予備校教科書を堂々と積んでいる学生は少なくない。法科大学院側でも、監督機関と志願者の評価を高めるために、司法試験合格率向上が死活問題となり、「受験に特化した教育はしない」という建前を、公然とかなぐり捨てないまでも、慇懃に棚上げしているところが増えてきている。さらに、旧司法試験廃止後の予備試験制度の採用は、法科大学院をバイパスして予備校に通って司法試験を受験するインセンティヴを能力の高い学生の間に高めている。
 問題の根幹は、先の共編著でも指摘したように、法曹志望者の勉学・能力開発の姿勢と関心を規定する決定的要因である司法試験制度等のあり方を総量規制も含めて根本的に改革することなしに、法科大学院新設という大学の制度いじりで事を済ませようとした点にあり、いまの惨状は予想できたことであった。しかも、このために、大学における法学の研究教育体制が払ったコストは甚大である。教育負担・行政負担の増大による研究者の疲弊だけでなく、新しい研究者養成の基盤侵食という問題が深刻化している。何のための法曹養成制度改革かという目的理念の当否もさることながら、改革目的と改革手段の整合性がまったくとれていない。改革目的実現のために真に必要な司法試験制度等の抜本改革という手段を法曹界の既得権勢力の抵抗の強さゆえに回避し、政治的抵抗力の比較的弱い大学に、効果が薄くコストのみ高い制度変更の負担と責任をおしつけ、おしつけた(おしつけの原因となった)勢力がいまや法科大学院バッシングで気勢を上げている。
 大学側も大勢順応した自己のふがいなさを猛省しなければならない。猛省するとは、失敗から学ぶことでもある。法科大学院が当初の目的の達成に失敗しているのは、自らの問題点に起因する面も皆無ではないが、根本的には、司法試験制度のあり方など、自己をとりまく外枠的な制度環境にある。古い基本ソフトをそのままにして、それに適合しない新しい応用ソフトを組み入れても、後者はその能力を発揮しようがない。大学側も、古い構造を残したままの外枠的制度の欠陥を棚上げにしてなされる法科大学院バッシングに受動的に対応してすますのではなく、改革目的と改革手段を機能的に整合化するために、外枠的制度の根本的な刷新を求める対抗運動をいまこそ能動的に展開すべき時であろう。

秋入学論議に見る大学改革構想力の劣化

 しかし、法科大学院の挫折から学ぶどころか、また愚かな「改革ごっこ」の波が別の場面で大学側に生まれつつある。秋入学への転換をめざす動向である。今回の仕掛け人は東京大学の執行部であるが、財界の一部がエールを送り、メディアが「なんだか面白そう」とばかりもちあげたこともあり、秋入学転換の検討の波は日本中の様々な大学に広がっている。その意味で、東京大学だけでなく日本の大学の改革問題になりつつあるので、一言しておきたい。仕掛けた大学の教員の一人として、誤解を避けるためにまず言うべきことだが、今回の秋入学転換論は東京大学の総意ではまったくなく、執行部がトップダウンで提唱し、部局での議論を開始する以前にマスコミにリークしたものである。理科系部局には賛成論も少なくないらしいが、文科系の部局には概して反対論・慎重論が強い。学内で議論を積み上げる前に、外部に情報をリークし世論操作で秋入学への流れを既成事実化しようとするかに見える執行部のやり方にも批判が強い。しかし、これは東大の内部問題なので、立ち入らない。秋入学制度を検討する日本の大学全体に関わるより重要な問題は、この改革論の中身がまったくお粗末なことである。
 そもそも、グローバル化に対処できる能力とタフさをもった学生を育てるという、その改革目的が茫漠としているが、なぜそのために、既に存在する選択的秋入学制度に代えて、原則全員強制型秋入学制度を採用する必要があるのかの根拠が薄弱である。ギャップタームに学生が留学したり、ボランティア活動をしたりして、受験勉強では得られない経験を積むことができるというが、こんな御定まりの経験の有無が本当に学生の能力と資質の向上に決定的重要性をもつのかが、まず大いに疑問である。留学しなければ、学生がいま社会から求められている能力を身につけられないと主張するのは、日本の大学の自己否定に等しく、もし、そうなら日本の大学はみな海外の大学のための留学予備校になればよろしい。大学で勉強する前に自分を磨きたいからボランティアするという学生は、ろくな能力もないため奉仕される側のお荷物になるか、奉仕される側にほめて育てる負担を負わせながら、それに気付かず、「人のために、いいことをした」と自己満足する自己中心性を強めるのが落ちだろう。本当に人の役にたちたいのなら、まず、大学でみっちり勉強して十分な能力を身につけてから、そうしろと言いたい。いずれにせよ、留学・ボランティア活動等をしたい意欲のある学生はいまの制度の下でもそうするだろうし、そんな意欲のない学生は秋入学にしたところでギャップタームにそういう経験を求める保証はなく、受験勉強からの解放感から、ただ遊ぶか、アルバイトに精を出すか、無為に過ごして終わる蓋然性が高いだろう。それを避けるために大多数の学生が留学やボランティア活動等の「有意義な機会」を得られるよう支援するために財政的・人員的資源を十分割り当てる余力は、東大も含めて財政逼迫に悩むいまの日本の大学にあるとは思えない。ギャップタームが期待される帰結をもつというのはきわめて不確かであり、率直に言って大学側の虫のいい願望思考である。秋入学制度という改革手段は、その改革目的を実現する効果がきわめて不確かである一方で、大学の教育体制全般の変更や4月から3月までの会計年度を基礎にした国や社会の様々な諸制度との調整に伴う厖大なコストを確実に伴う。卒業までの期間が延長することに伴う学生と親の経済的負担の増大も無視できない。
 改革目的自体の曖昧性・皮相性。改革目的と改革手段のミスマッチ。不確かで曖昧な便益のために確実で厖大なコストを払わせる不合理性。これらの点を考えるなら、秋入学が日本の大学改革の切り札になるとする議論には、制度改革論に期待される政治的知性が、法曹養成制度改革の場合と同様に、否、それ以上に貧困である。「政治的知性」の貧困とは、単に知的分析力だけでなく、政治的責任意識の貧困を意味する。マックス・ヴェーバーの用語を借りて言えば、「先進的」と自認する制度改革目的に「心情倫理」的に自己満足し、改革手段の帰結を現状または代替的改革手段との比較において徹底的に吟味して、巻き込まれる人々に負わせるコストを正当化するに足る便益を本当に当の改革手段がもたらしうるのかを真摯に検討した上で、その手段選択の帰結に責任をとるという「責任倫理」の姿勢が希薄化しつつあるように思える。「日本人の劣化」論に違和感をもつ私も、法科大学院の失敗から何も学ばず「秋入学」論議にまた浮き足立っている日本の大学の現状を見ると、「日本の大学人の劣化」を言いたくなる。正確には日本の大学改革論者の劣化だが、一般の大学人も彼らの暴走をただ傍観し、結果的に追認するなら、日本の大学の劣化の共犯とみなされる覚悟が必要である。制度改革における政治的知性の貧困は、いま混乱のきわみにある日本の政治自体にも言えることだが、この問題の考察は別の機会に譲りたい。