学会報第49号

(2024年4月25日発行)

客人を迎え入れること

日本法哲学会理事長 中山竜一(大阪大学)

 今回は、学会理事会のことから書き始めたいと思います。本学会の理事会は、通常一年につき計3回行われています。皆さんが集まりやすい場所ということで、コロナ禍の前には、1月初旬に京都、7月末に東京、そして11月の学術大会前日にその年の会場校で開催するのが通例となっていました。ただ、コロナ禍のあいだは、学術大会と同様、理事会についても長らくオンラインでの開催を余儀なくされ、一昨年(2022年)の学術大会が対面開催となったのに合わせ、ようやく理事会も対面での開催へと復帰しました(正確には、対面とオンラインを併用するハイブリッド方式での開催です。せっかくオンライン会議という便利な手段が普及したのだから、ご家庭の事情等で出席できない皆さんのことも考え、技術的に可能であるならば、それらも活用しようということです)。
 その後は、ハイブリッド会議のための機材の関係で、変則的な形で京都での開催が何度か続きましたが、今年1月の理事会が東京で開催され、そして次の7月が京都での開催となり、夏と冬で開催地は入れ替わったものの、ようやく以前の姿に戻ったような感じです。
 さて、ここで強調しておきたいのは、理事の皆さんが、これらの会合に手弁当で参加しているという点です。つまり、例年の総会で示される会計報告からもおわかりの通り、理事会参加のために必要となる旅費が学会予算から支給されるといったことは決してなく、それぞれの理事が自ら交通費や宿泊費を捻出した上で、理事会での話し合いに出席し、本学会の活動がこれまで通り回っていくための多くの仕事を行っているということです。
 そこで、このところ特に頭が痛いと感じているのは、理事会の開催地である東京や京都における、宿泊費用の急激な高騰です。どちらの町についても、観光シーズンでの宿泊予約が難しいという点はこれまでと同じですが、最近ではホテルや旅館等の宿泊代金の上昇が尋常ではないように思います。そして、言うまでもなく、これは、円安による外国人観光客の急激な増加と無関係ではありません。外国の方々からすれば日本の全てがバーゲンセールであるのと裏腹に、これまでの消費行動を断念せざるを得ない国内の人々も増えつつあるといったこうした現状は、ここ十年間の失政の結果と言うほかありませんが、それは同時に、単にお金の問題にとどまらず、深刻な都市機能の崩壊をも引き起こしつつあります。いわゆる「オーバーツーリズム」の問題です。
 オーバーツーリズムについては、コロナ禍の以前から、新聞やテレビ、ネットニュース等々を通じてさかんに報じられていますので、ここで何か新しいことを述べようなどとは思っていません。しかし、私が住む京都市では、通勤や通学に使うバスが観光客で溢れかえり、日々の生活にも支障を来しているといったことはもちろん、町家が残る一角のほぼ区画全てが買収され、伝統産業を守る昔からの店舗が廃業を余儀なくされたり、多数の住宅が投資目的で買い漁られた結果として住宅価格が高騰し、若い世代が市内で住み続けられなくなり他府県に流出したりといったことが、目に見える形で起こりつつあります。正直なところ、ある種の限界にまでたどり着いてしまったなと感じています。
 もちろん、こうした事柄が起きているのは、日本の観光都市に限られた話ではなく、ヴェネツィアやバルセロナ、そしてバンコクなど、世界各地で生じている深刻な問題であることも承知しています。だからこそ、この論点は(「グローバリゼーション」と言うよりむしろ)現在の資本主義や市場経済に内在する問題として論じる必要があるように思われます。もちろん、それが単なるクセノフォビア(外国人嫌悪)の擁護につながるものであってはならないことは言うまでもありませんが、すでに事実上、この国の政治が外国人労働者の大量受け入れへと舵を切ったことを考え合わせても、難民、移民、外国人労働者、外国人による土地取得、そしてオーバーツーリズムの問題は、相互に連関するものとして論じなければならないと私は考えます。かつてカントも取り上げたHospitalitätの主題、つまり、客人をどのように迎え入れるべきかという主題は、新たな構図の下で総体的に組み替えられなければならないのかもしれません。