学会報第35号

(2017年5月31日発行)

法哲学年報の将来のことなど

日本法哲学会理事長 亀本洋(明治大学)

学会報29号(2014年5月31日発行)で、特別基金の使い方を考えたいと申しました。一般会計の近年の使用状況も考慮した上での、理事会における大体のコンセンサスをお伝えしておきます。
第一に、学術大会のために使う。これは、特別基金が設立された当初からの使用目的に入っております。一般会計からの支出で間に合うときは、特別基金から支出しませんが、不足するときは特別基金で補うということです。とくに、開催校の人出が足りないときなどは、学術大会資料等のコピーは外注し、日本法哲学会会計(一般会計または特別基金会計)から支出することにしました。理事以外に支払っている企画委員会参加旅費補助にも特別基金は使えます。
第二に、創設75周年記念大会のために使う。その内容は定まっておりませんが、今のところ、特別基金から支出して企画本を出すことには消極的です。
第三に、法哲学年報の頁が有斐閣との契約頁(正確には覚えていませんが230頁くらいだったと思います)を超えた分の費用を補う。これは、正確には特別基金の使途ではありませんが、この金額が大きい場合、学会経費を特別基金から支出し、年報費用を一般会計から支出するということになりますから、実質上、特別基金の使い道になります。最近は年報増頁の費用がだいたい、50万から80万くらいかかっております。理事会で、ある程度の増頁を覚悟で企画を立てることも多いので、増頁費用はだいたいにおいて想定内ですが、結構大きいのも事実です。また、公募の査読論文の合格が多い場合も、増頁につながります。最近は、法哲学会会員による出版が多いこともあり、「論争する法哲学」で取り上げる本もできれば増やしたいところです。ですが、これも年報費用の増大につながります。10年間くらいは大丈夫だと思いますが、将来会費値上げも考える必要があるかもしれません。
年報の話が出たついでに、今後の年報のあり方・検討課題についても私見を述べておきたいと思います。一つは、査読誌としての法哲学年報についてです。法学関係の学術雑誌は、伝統的には各大学の機関紙ないし紀要でして、大学院生はそれに発表すれば、法学界では立派な業績と認められてきました。ですが、最近では、理系中心の大学運営に抵抗できる一部の法学部・法学研究科を除けば、就職の際などに、査読誌掲載でないと論文の評価が形式的に低くなるようです。機関紙でも査読誌と称しているものもあるようですが、他大学の研究者も応募できないかぎり、厳密な意味での査読誌とはいえません。結果的に、法哲学年報掲載論文の価値は上がります。
ですから、今後、長期的には、応募数が増えるのではないかと予想されます。今までは、すでに大学教授または准教授の地位についている会員の間では、公募論文は未就職の若手のためのものであり、中堅以降の会員は応募しないという暗黙の了解があったように思います。しかし、講師から准教授、または准教授から教授の昇進に当たっても査読誌掲載論文であることが重視される大学に所属する会員にとっては、法哲学年報への応募の動機が強くなります。
法哲学年報の公募論文の査読は、学会員のご協力に基づき、相当厳しく適正にやっております。しかし、公募論文応募の数が増えると、それでなくても短期間(原則1か月以内)でお願いしている査読を担当する理事および会員(非会員に依頼することもあります)の負担も大いに増加します。将来、編集委員会と理事会の分離(現在は、メンバーは同じ)、公募の締切、論文量等も含め再検討する必要があると思われます。
関連しますが、年報に関するもう一つの話題は、英文論文についてです。理系(経済学を含む)の評価基準では英語論文のほうが邦語論文よりも形式上評価が高いということがあります。同じ基準が、就職・昇進に当たり法哲学の専攻者にも適用される可能性が大いにあります。現在でも、法哲学年報に英文で応募することは可能ですが、英語論文が増えてきた場合(査読負担の増大についてはくり返しませんが)、日本法哲学会として、年報以外に英文の雑誌(Web上のものを含む)を刊行する必要が出てくるかもしれません。現在でもARSPなどへ応募できますが、日本の英文査読誌があったほうが何かと都合がよいことは確かです。実定法学と違い、本来ローカルではない法哲学界や法社会学界などでは20年以内くらいに、日本でも理系と同じく、英語論文が標準的となるのではないか、と勝手に予想しています。自分を棚に上げて言いますが、若い会員はそれに備えて下さい。
今年の11月には理事長を退くつもりですので、今後の法哲学会および年報について思うところを書き留めておきました。意見をお持ちの方は、お知り合いの理事にお伝えいただければ幸いです。