学会報第26号

(2012年9月30日発行)

フェア・プレイとは何か
―競技の法哲学

日本法哲学会理事長 井上達夫(東京大学)

二つの「無気力試合」問題

督促原稿に追われる身ながら、今夏のロンドン・オリンピック、若干の気になる競技のテレビ放映を録画し、「執筆の疲労を癒すに必要不可欠なる休息への我が人権」を行使して、時折観戦した。しかし、気晴らしになるどころか、悩ましい法哲学的問題を提起する試合もあったので、ここで多少の考察を加えておきたい。
女子サッカーで、なでしこジャパンは米国に決勝で敗れたものの、オリンピックの銀メダル獲得で、ワールドカップ優勝が「まぐれ」ではなかったことを証明した。なでしこファンの1人としては、大いにその健闘を称えたいが、1点、その栄光を曇らせる問題もある。1次リーグ最終戦で、かなり「格下」の南アフリカと対戦したが、精彩を欠いた戦いぶりで、0対0で引き分け、リーグF組2位通過でトーナメントには進めたものの、ファンを失望させた。さらに、試合後、佐々木監督が、得点せずに引き分けで終わらせるよう選手たちに指示したことを公表し、これがまた物議を醸した。南アフリカに勝つとリーグ1位通過になり、その場合には、3日後のトーナメント初戦を米国またはフランスという強豪と、遠いスコットランドの競技場まで移動して闘わなければならないが、引き分ければリーグ2位通過で、その場合は、1次リーグ最終戦と同じウェールズのカーディフの競技場でE組2位通過のブラジルと対戦することになる。移動しない方が選手の体力回復に有利であること、さらに対戦相手としてはブラジルも侮れないとはいえ米仏に比して闘いやすいことを考えて、リーグ最終戦を引き分けに終わらせる作戦をとったという。これには、御し易いと見られたブラジル・チームの監督が不快感を表明したのは当然ながら、日本のファンの間からも抗議や不満の声が上がった。
佐々木監督の指示による「戦略的ドロー」については、批判の声はあったものの、これをルール違反ないし不正行為とみなして国際サッカー連盟(FIFA)ないし国際オリンピック委員会(IOC)が処分すべきだというような主張はほとんどなかったように思う。しかし、私が観戦しなかった別の競技だが、報道によれば、女子バドミントン・ダブルスの予選リーグで、中国の1ペア、韓国の2ペア、インドネシアの1ペア、計4ペアが、自国の他チームとのトーナメントでの対決を避けるため(中国と韓国の1ペアの場合)とか、世界ランキング1位の中国ペアとのトーナメント初戦対決を避けるため(韓国の他のペアとインドネシアの場合)とかという理由で、「戦略的敗戦」を狙って、明らかに意図的と分かるサーヴ・ミスやレシーヴ・ミスの頻発する「無気力試合」を主審の警告にも拘らず続行したため、世界バドミントン連盟(BWF)によって失格処分にされた。
BWFの憲章には試合における選手の全力投入義務が定められており、これが失格処分の根拠にされている。FIFAがそのような義務を課すルールを組織として制定しているのかどうかは知らないが、スポーツマンシップの観点からは、佐々木監督の「戦略的ドロー」作戦に対して、FIFAも、失格処分か、少なくとも訓戒ぐらいはすべきでないか、という問題が原理上は提起されうるだろう。佐々木監督は、わざとミスさせて失点させたのではなく、得点をとれるのにあえてとらせないで引分けさせただけだから、公然と故意にミスして失点し、戦略的に負けようとした女子バドミントン・ペアの場合ほどひどくはないとして、佐々木監督を擁護する立場もあるだろう。しかし、他方で、佐々木作戦も、後の試合での条件を有利にするために、目下の試合でのパフォーマンスを選手の能力よりもかなり低いレベルまで意図的に下げたという点では、失格処分になった女子バドミントン・ペアの作戦と同じだし、しかも後者は誰にでも分かる仕方で公然とやった点で、野球の「敬遠」のような「明朗さ」が多少ともあるのに対し、隠微にやった点では、佐々木作戦の方が「たちが悪い」と非難する立場もあるだろう。後者の立場からすれば、試合後に佐々木監督が「戦略的ドロー」だったことを公表したのは、そうしないと選手たちに「ふがいない」という非難が向けられてしまうのを恐れたからであり、責任が自分にあることを承認して選手たちを守ろうとしたのはよしとしても、このことは、公表しないと分からないくらい彼の「戦略的ドロー」作戦が隠微な狡猾さを秘めていたことを逆に証明している。

戦略的行動に対する義務論的制約の根拠

この女子サッカーの例と女子バドミントンの例は、スポーツにおいてフェア・プレイとは何かを改めて考えさせる。フェアネスやフェア・プレイの概念は法哲学においても正義論・遵法義務論で重要な位置を占めているから、法哲学者にとっても無視できない応用問題である。フェア・プレイとは単にルールに従ったプレイではない。ルールに反しない限りで可能な様々な戦略の中でも、フェアなものとアンフェアなものとが区別されるのである。さらに、フェア・プレイはファイン・プレイではない。特段の賞賛に値する「美技」ではなく、特段に非難されるほど「汚くはない」プレイ、「相手に対して不公正ではない」プレイである。優勝を目指す上でいかに効果的であったとしても、また形式的にはルール違反にもならないとしても、やってはいけないことがある。このような競技戦略を制約する義務論的な道徳原理をフェア・プレイの概念は内包している。何がかかる原理かはかなり複雑な問題であり、ここで十全に解明することはできない。ただ、上記の例から引き出せる教訓が一つある。
なぜメダル獲得の障害になったとしても常に真剣勝負しなければならないのか。観客の期待に応えるためというのは決定的な答えではない。自分の応援するチームが真剣勝負を続けてメダルをとれないくらいなら、時折手抜きしてメダルをとれる方がいいと思う観客は少なくないし、むしろそれが多数派であることは、佐々木監督への批判が銀メダル獲得後はあまり日本で聞こえないことに示されている。観客の期待ではなく、メダル獲得への観客の期待をも規範的に制約する原理が問題である。それは何か。試合における「敵への敬意」である。勝負をかけて敵と真剣に闘うことは、敵を自己の目的達成の単なる手段として扱うのではなく、自己と対峙し対抗する主体としての敵たる他者の人格性を尊重することを含意している。手抜き試合は試合相手を、当の試合とは別の目的を達成するための単なる「踏み石」として扱い、真剣勝負に値する他者とはみなさないというメッセージを発することで、その人格性への侮蔑を表現している。
佐々木作戦が何らかの処分に値するか、女子バドミントンの事例とどちらが汚いかという問題は別としても、それが南アフリカ・チームへの侮蔑を孕むことは否定し難いだろう。南アフリカ・チームがそれに気付かず、ランキングがはるか上の日本と引き分けたことに素直に喜んだのか、それとも気付いていたのかは分からないが、気付かなかったからといって、佐々木作戦の彼らに対する侮蔑性がなくなるわけではない。むしろ逆に、気付かれない侮蔑の表出の方が、相手を見下す慇懃無礼な姿勢をより強く示すとも言えるだろう。いずれにせよ、「戦略的ドロー」だったことが公表された後、南アフリカ・チームは、ブラジル・チームよりも、その自尊心をはるかに深く傷つけられたはずである。ブラジル・チームは日本に「舐められた」と怒りながらも、ともかく日本と互いに真剣勝負を闘って負けたが、南アフリカ・チームは真剣勝負の相手にすらされなかったからである。

オリンピックにおける政治活動禁止の根拠

今回のオリンピックで、もう一つ処分問題が提起されたのは、日本と韓国との男子サッカー3位決定戦で、勝った韓国の一選手が試合終了直後、韓国サポーターから渡された「獨島(竹島)は韓国領土」というメッセージの入ったポスターを掲げて競技場を走り、これがオリンピックの場における政治活動の禁止に反するとして、IOCにより銅メダル付与がその選手について保留された事件である。オリンピックの場における政治活動禁止の根拠として真っ先に考えられるのは、ナショナリズム昇華論であろう。それによれば、国家間の対立・紛争を激化させやすいナショナリズムの情念をスポーツにおける国民間競争という平和的形態に「昇華」させて、その危険性を馴化するのがオリンピックの目的であるから、ナショナリズムの情念を生のまま表出する政治活動、とりわけ今回のような領土紛争における国益主張行為をオリンピックの場で行うことは許されない。
このナショナリズム昇華論は無視できない重要性をたしかにもってはいるが、メダル獲得数増大を国策として推進しスポーツを政治化している国が少なくない現在のようなオリンピックの在り方が、ナショナリズムを本当に馴化できているのか、むしろ、それは国威発揚を願うナショナリズムの情念を特に新興諸国の間で昂進させているのではないかという疑問が向けられるだろう。韓国は日本の何倍もの予算を選手育成強化事業に投入しており、選手にかけられる「国威発揚の尖兵」としての役割期待の圧力の強さは日本の比ではなく、今回のような事件も起こるべくして起こったと言えるかもしれない。
この事件は、ナショナリズム昇華論の観点からだけでなく、フェア・プレイの精神というオリンピックのもう一つの重要な理念の観点からも考察すべきである。フェア・プレイ精神の重要な構成要素の一つが「敵への敬意」にあると上に述べたが、これは勝利やメダル獲得のための戦略にだけでなく、勝負の後のマナーにも関わる。真剣勝負を闘った後は、勝者も敗者も握手して互いの健闘を称えあうことが「敵への敬意」を示すための不可欠の作法である。試合の勝利で図に乗って、領土紛争に関わる「政治的喧嘩」を競技の場で仕掛けるようなことは、勝者が敗者に試合後にさらに追加的攻撃を加えるのに等しく、「敵への敬意」をまったく欠いた無礼かつ不公正な行為である。「敵への敬意」を示す作法は試合中もその前後も一貫して要請される。オリンピックの場での政治活動は政治的憎悪を掻きたてることにより、ナショナリズムの昇華を妨げるだけでなく、「敵への敬意」というフェア・プレイの精神も損なうがゆえに、禁じられるべきなのである。
最後に、以上の議論の現実政治問題への含意に一言触れて締め括ろう。東アジアではいま、領土問題を火種にしてナショナリズムの抗争が高まりつつある。こういう状況だからこそ、現実の国際政治においても、「敵への敬意」としてのフェア・プレイの精神は強く求められている。日韓領土問題については、いずれの領土主張に理があるかは別として、国際司法裁判所での紛争解決を日本が要請しているのは適切であり、韓国がこれを拒否し続ける姿勢をとっているのは、手続的公正・国際紛争の平和的処理という国際社会におけるフェア・プレイの理念に抵触するだろう。このことはまた、日本が実効支配している尖閣諸島について、もし中国が国際司法裁判所に提訴した場合には、日本は国際司法裁判所規程第36条第2項(選択条項)を受諾しているが中国は受諾していないので提訴に応じる法的義務はないとしても、二重基準の不公正に陥らないために応訴する政治道徳的責任があることも含意している。(選択条項受諾国が法的に応訴義務を負うのは他の選択条項受諾国に対してだけであると私は理解しているが、間違っていたらご叱正を乞いたい。なお、台湾も領土主張しているが、中台関係という複雑な問題が絡むので別途、対処方法を考える必要があるだろう)。中国や韓国等においていま台頭してきている居丈高だが「大人の自制心」を欠いたナショナリズムに対して、日本は同様な幼いナショナリズムで応酬するのではなく、「敵への敬意」を保持したフェアな態度で交渉を続け、司法手続に則った紛争の平和的解決に向けて国際世論の支持と圧力を動員し、中国・韓国等の内部にも存在する良識派に訴え、かかる諸国の対外姿勢の穏当化を促す努力を続けていく必要がある。