学会報第30号

(2014年9月10日発行)

森戸辰男と法哲学会

日本法哲学会理事長 亀本洋(京都大学)

日本法哲学会創立五十周年記念『法哲学会のあゆみ』(1998年11月)という冊子があります(日本法哲学会ホームページで閲覧可能)。そのなかに「聞き書き・学会成立事情」(竹下賢)という記事があります。それによると、1948年5月30日の日本法哲学会創立総会には、当時文部大臣(芦田内閣)の森戸辰男氏が出席し、「一般にはそのことで評判になった」そうです。森戸氏はもともと、社会政策、社会主義の研究者であり、また、三谷隆正とも親友だったそうですから(森戸辰男『思想の遍歴 上』春秋社1972年250頁以下参照)、法哲学会に来てもおかしくありません。来たとして、開催日をだれが教えたのか、ということについては、今のところ、田中耕太郎か横田喜三郎あたりではないかと推測しています(森戸辰男『思想の遍歴 下』1975年280頁に両者の名前が見えます)。
森戸は、助教授として東京帝国大学経済学部に在籍した31歳の時に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表して、新聞紙法42条の朝憲紊乱罪で禁錮3月罰金70円の刑を受け、東大を追われた学者です。その後、大原研究所で研究および労働運動の支援を続けました。敗戦後、衆議院議員や広島大学学長、中教審委員などを務めました。日本文化人連盟の憲法研究会の一員として「憲法草案要綱」(新聞発表1945年11月28日)の作成に参画したこと、社会党議員として日本国憲法に生存権規定を入れるのに尽力したことでも有名です。
先のクロポトキン論文は、東京帝国大学経済学部の機関紙『経済学研究』1巻1号〔名目上は大正9年(1920年)1月1日発行だが、『思想の遍歴 上』77頁によると、実際に発行された日は前年12月22日らしい。また、同書303頁以下または森戸辰男『クロポトキンの社会思想の研究』黒色戦線社1988年に同論文再録〕に掲載されましたが、上杉慎吉らが黒幕とされる興国同志会所属東大生や内務省・文部省の圧力により、直ちに自主回収されました。
新聞紙法にいう「新聞紙」には、いわゆる定期刊行物も含まれます。森戸は、大正9年1月10日の経済学部教授会決定を経て、文部省から休職処分および留学取消を発令された後、新聞紙法42条「……朝憲ヲ紊乱セムトスルノ事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキハ発行人、編輯人、印刷人ヲ二年以下の禁錮及三百円以下ノ罰金ニ処ス」(これは同法9条で「掲載ノ事項ニ署名シタル者」つまり論文の著者にも準用されます)の罪で起訴されました。発行人兼編輯人として、同僚の大内兵衛助教授も「巻き添えを食って」起訴されましたが、森戸と異なり、執行猶予判決ですみました。
大学当局が弱腰の姿勢をとった理由の一つには、それによって、官憲からの介入が抑えられるのではないかという淡い期待がありました。しかし、事実は、「1月10日には、検事総長平沼騏一郎が臨時兼任法相原敬〔首相〕をたずねて、森戸起訴について同意を得」、12日には原は平沼に「近来大学教授が売名の徒となりて、途方もなき意見を発表するの弊風も生じ居れば旁以て捨置く事は出来ざるべし」と語り、「翌13日には、森戸のほか大内兵衛君をも起訴することが閣議決定となってしまった」(『思想の遍歴 上』84頁)ということで、大学側の対応策は手遅れかつ無駄でした。
大逆事件の後、しばらく社会主義や政治運動の「冬の時代」が続きましたが、大正に入り、思想統制がやや緩くなっていた時期にあって、労働争議、小作争議、米騒動等が頻発するなかで締め直す機会を虎視眈々と狙っていた官憲(親玉は山県有朋らしい)の格好の餌食となったとみてよいでしょう。しかし、森戸は、有罪判決確定・下獄までは、逮捕も拘束もされておりませんから、後の昭和の戦争の時代と比べると大したことはない、という印象をもちます。「森戸事件は、ファシズムの時代の最初の一幕というよりは、大正デモクラシーの時代の最後の輝ける一幕であったように見える」という立花隆氏(『天皇と東大 Ⅱ』文春文庫2012年18頁)の見方に賛同します。
森戸事件裁判において、今村力三郎主任弁護人以下、吉野作造、佐々木惣一、三宅雪嶺等を含む大弁護団は無罪を主張しましたが、大正9年3月3日第一審東京地裁第一刑事部(裁判長井野英一、陪席、尾高武治、長島力三)は、森戸禁錮二月、大内罰金四十円の有罪判決を下しました(読売新聞大正9年3月4日朝刊参照)。これは、弁護側実質勝訴に近い判決です。というのは、検事は新聞紙法42条朝憲紊乱罪で起訴したのに、判事はそれを適用せず、刑の軽い(禁錮6月以下)同法41条(「安寧秩序ヲ紊〔ス〕……事項ヲ新聞紙ニ掲載シタル」の罪)を適用したからです。
ところで、特別弁護人佐々木惣一の弁論の基礎になったものが「無政府主義の学術論文と朝憲紊乱事項」として、法学論叢3巻4号(大正9年4月)に掲載されています。森戸自身は、「解釈法学の傑作」と激賞していますが(『思想の遍歴 上』186頁)、読んでみた私の感想は「法律論としてはもう一つ」といったところです。しかし、国家主義者を自任する佐々木が無政府主義を理想とする森戸を擁護するため、遠路、東京まで何度も出かけた点は、学問の自由という共通利害があったとはいえ、称賛に値しましょう。
森戸事件は、東大の学生が騒ぎ出してから第一審判決の頃(大正8年12月末から翌年3月)までは世間の注目を集めましたが、それ以降、大審院判決が出るまでは注目は急速にしぼんだようです。東京控訴院は大正9年6月29日、新聞紙法42条を適用し、既述の刑を科しました。同年10月22日、大審院は上告を棄却し、森戸は3か月間東京監獄に入りました。森戸は、クロポトキンと同じく無政府共産制度を理想としつつも、その実現方法として「暴力と激変とによつてではなく平和の裡に行はるゝ断えざる有機的発展によること」を勧める点でクロポトキンと異なるのだと訴えましたが、大審院は、「平静緩和の手段に依るべき旨を慫慂したるとするも、所論の主義主張にして既に我国家の存立を危殆ならしむるの虞ある以上、……右論文は朝憲を紊乱せんとする事項に該当する」と応えました。
法律新聞1774号(大正9年12月15日)15頁以下に大審院判決が載っています。森戸(前掲書167頁)は、大審院刑事二部の末弘裁判長から判決が下されたと述べており、大正9年10月23日読売新聞にも「大審院刑事二部末弘裁判長の下に於て審理中なりしが」とありますが、他方で、同日付大阪毎日新聞夕刊には「刑事一部末弘裁判長」とあります。末弘裁判長は、刑事一部なのか二部なのか。さらに驚くべきことに、上記法律新聞の記事末尾の署名欄には「大審院刑事一部、裁判長判事遠藤忠次……」とあります。どうしてこうした記事の相違が見られるのか、ご存じの方があれば教えていただくとありがたいです。末弘裁判長とは、おそらく末弘厳太郎の父、厳石なので興味があります。
森戸論文に戻りますと、それは、クロポトキンの思想全体をよく捉えており、クロポトキンへの共感が生き生きと伝わってくるところ(そこがいいのですが)を除けば、手堅い立派な論文で、法哲学の論文でもあります。
私は、ロールズが出てくる前までは、西洋倫理学における正義の中核的概念であったdesert(値すること、値するもの)について調べているうちに、森戸論文に出会いました。私は、「クロポトキンは、怠け者はどう扱うのか」に興味がありました。同論文中の森戸訳によると、「友よ吾々は君と一所に働かうと思ふが君は屢々欠勤するし又仕事を粗略にするから、吾々は君と分れねばならぬ。何処か余所へ行つて君の無頓着を構はない仲間を見付け給へ」(幸徳秋水訳『麺麭〔パン〕の略取』岩波文庫1960年201頁も参照)というのがその答えです。
ロールズなら、「怠け者になるのも偶然で、運が悪かったのだから、仕方がない。仲間に入れてあげよう」というでしょうか。森戸(のクロポトキン解釈)と同じく、「働かざる者食うべからず」といいそうです。ちなみに、来年の学術大会のテーマは応報ですが、応報はdesertの反面です。
長くなって申し訳ありません。ともあれ、本年の学術大会でお会いできるのを楽しみにしております。